陰関数定理と座標

多様体って言うのは座標不変な性質を調べることがメインになるわけだが、普通に解析学で考える陰関数定理はモロに座標に依存した条件がつくので、多様体論の文脈で陰関数定理を考えた時、この条件は一体どうなってしまうのか疑問に思っている。まだ松本幸夫の『多様体の基礎』のその部分をやっていないので早くやらねば、と思う。

実はこの部分、初めて陰関数定理を学んだ時(経済学を大学院で学んでいた時)から不思議に思っていた条件で、その不思議さの本質は座標系の問題であったと今になって思う。昨日の授業でもでてきたけど、変数を入れ替えてやれば(つまり座標を入れ替えてやれば)、同じことに対して、さっきまで定理が使えなかったのに今度は使えるというヘンな事態が発生するわけ。別にこれがヘンじゃないと言えばヘンじゃないし、ヘンだといえばヘンだと僕は思う。

ちょっとそれるが、それってつまり僕の心に内在する「数学は美しいもの」という渇望がヘンだと思わせているってことだと思う。対称的じゃないから。でもこれは全くの思いこみで、実際のところは「美しい」と感じ部分だけ記憶に残っているに過ぎず、あまたの「美しくない」定理や証明は頭から追いだしているだけなんだな。

話しを陰関数定理に戻すと、これは逆関数定理と深い関係があって、僕的には区別が付いていないというのが本当のところなんだが、片方が証明されれば他方の証明は易しいことは容易に想像がつく。どうして僕がこの定理に拘るのかと言えば、非常に便利だからということもあるが、証明が美しくはないが(僕にとって)非常に興味深いものであったからだ。「ホッホウ」と声を挙げてしまうような、見方によっては力業のようなことをやりつつ、結構視覚的な証明だったように記憶している。

陰関数定理の不便なところというか、(個人的に)陥りやすいミスは、局所的に定義されている(逆)関数なのに、なんとなくいつのまにか大域的に定義された立派な関数であるような錯覚に陥ってしまうことだ。定理により「局所的に」存在が認められている関数を他の関数に放り込んでいじくることはよくあるのだが、その関数をじっと見つめているウチに、あたかも一人前の関数だと思ってしまうわけ。ま、僕が不注意なわけだけどさ。